結果は河村さんと大村さんの圧勝。予想されていたとは言え、やはり凄いと言わざるを得ません。当選されたお二方にはお祝いを申し上げたいと思います。
しかし、今回の選挙は不思議なことが多い選挙でした。
1.中京都構想とは一体何なのか?
大阪都構想に続き、中京都構想が華々しくぶち上げられたのですが、中身を理解して支持をした方がどの程度いらっしゃるのでしょうか?
私も選挙前に両候補者のマニフェストを見て中身を確認したのですが、殆ど具体的内容が記載されていないので、この中京都構想が何を意味しているのか、今でも分からないままです。
●具体的内容は殆ど示されず
実は昨年12月24日に行われた指定都市長会議でも河村市長に私も含め各政令市長が「あれは具体的に何なの?」「大阪都構想と同様に名古屋市を解体するの?」と聞いてみました。すると河村市長からは「名古屋市は解体しない。もっと元気になる」「要は庶民が主役の街づくりをするということ」というような、要領を得ない回答ばかりで、まだ具体的なことは何も詰まっていないということが分かりました。
私は橋下知事の大阪都構想にも基本的には反対ですが、まだ橋下知事の構想の方がほんの少し具体性がある分マシに思えます。
●県と政令市がタッグを組むのはいいが…
もちろん、県と政令指定都市が連携を密にすることは大事ですし、共通目標を持って臨むことも大変良いことです。私も千葉市長に当選して真っ先に行ったことの一つは県との関係修復でした。県と政令市は微妙な関係になることが多く、そこから二重行政などが発生しかねないため、意思疎通は非常に重要です。現在では副知事・副市長を窓口とした県市間懸案事項を協議する場が存在します。
そういう意味では県知事選挙と政令市長選挙が同時に行われ、タッグを組んだ二人が共有のマニフェストを出すこと自体はむしろ良いことだと思っています。ただ、詳しい中身も無く、「一緒にやればうまくいくんだ」というような気合レベルの構想を選挙の目玉にするというのは有権者に失礼ではないかと私は思います。
2.減税の中身を有権者は本当に理解しているのか
河村市長の政策の第一は「減税」であり、大村さんも愛知において減税をするということを主張されています。
減税の是非はさておき、まず減税の実態について理解をした上で有権者が判断をしたのかが少し不思議に思っています。
●一律減税は高所得者にメリットがある施策
名古屋において実施された減税は市民税の一律10%減税(均等割:3,000円⇒2,700円、所得割:6%⇒5.4%)です。
皆さんもご存じのとおり、市民税は所得の高い人の方が納税額は増えます。ということは減税によって最も得をする人は所得の高い人、ということになります。「いや、私は所得は高くないけど少しでも税が安くなることは良いことだ」という人もいらっしゃるかもしれませんが、ここで考えてほしいのは納税額と市民サービスは比例の関係には無い、ということです。
●低所得への福祉サービスは高所得が納める税金で成り立っている
行政が民間と違うところは、納税額が多い人ほど高い行政サービスを受けられるかというとそうではなく、むしろ納税額が少ない低所得者ほど福祉を中心に手厚い行政サービスを受けているところにあります。つまり、高所得の人が納めている税金によって低所得の人は行政サービスを受けているということになります。
例えば千葉市の場合、所得が410万円以下の人数は26万人以上、構成割合にして60%近くにも上りますが、この方々の税額は全体の20%ちょっとです。対して所得が1,062万円以上の方は全体の4.5%に過ぎませんが、税額は全体の24%を占めています。
●減税によって損をするのは低所得者では
一律減税によって所得の高い人の納税額が減れば何が起きるかと言うと、低所得者のための行政サービスを行うための財源が無くなります。
河村市長は「減税分は行革で捻出できる」とおっしゃっていますが、さすがに減税分全てを職員の給与削減で賄うことはできません。行革をいくら頑張ってもある程度の福祉サービスのカットは避けられないでしょう。
●政策そのものは荒唐無稽というわけではない
ここで申し上げておきたいことは、私は減税によって福祉サービスがカットされることをもって減税はダメだと言っているわけではありません。
カットされた市民サービス以上に減税の恩恵を得る高所得者層は確実に存在するわけで、低福祉低負担、小さな政府路線として一つの方向性であることは間違いありません。アメリカで言えば共和党寄りの政策と言えるかもしれません。
また、「高所得者が名古屋市に住むことで税収が増える」という河村市長の主張も(おそらく減税額を越えるほどの増収は難しいと思いますが)全く間違っているとは言えません。
●低所得者はこれでいいのか
問題は、この明確に高所得者向けの政策がなぜか低所得者にも良いことのように受け取られている点です。
何度も申し上げてきたとおり、一律減税によって恩恵を被るのは高所得者であって、低所得者は自らの減税額以上に市民サービスの低下が起きるリスクがあるにも関わらず、「庶民革命」の美名のもとで高所得者向けの施策に喝采を送るという、この特異な状況をどう考えれば良いのでしょうか。
もし、庶民向けの減税ということであれば、均等割・所得割ともに10%減税するのではなく、所得割はそのままで均等割を3,000円から一気に半額以下にまで引き下げれば良いと思いますし、実際に名古屋市議会ではそのような議論が行われたようです。その時の河村市長の反論が「そこまで安くすると低所得者は徴収コストの方が高くなり、税を取る意味が無くなる」という内容でしたから、やはり河村市長の減税はどちらかというと高所得者向けの減税が目的ということだと思います。
●県単位での住民税の減税はナンセンス
ちなみに県レベルで減税することは全くナンセンスだと思います。
愛知県が10%県民税が安い程度で静岡県や岐阜県の人が越境して居住するでしょうか? 名古屋市のように「隣に住むくらいなら少し安いから名古屋にしよう」ということは何とかありえるとしても、県を越えるのはあまり考えられません。ましてや首都圏や関西圏から移住することなどまずありえません。少なくとも700万人以上の既存の県民に対する減税額を上回る流入効果を得ることはまず不可能です。
意味の無い減税をする財源があるのであればその金額分を毎年企業誘致に使った方が何百倍も県民のためになるでしょう。大変残念な政策です。
●将来的には大きなツケを払うことも
さらに申し上げれば、今後少子超高齢化社会の進展により社会保障費が爆発的に増え、税収は伸び悩むことが予想されます。今でも予算繰りが厳しいのですから、10年後20年後はもっと厳しくなるでしょう。そんな中で減税すれば名古屋市の借金は確実に増大し、それが将来へのツケとなることが十分に予想されます。
子ども手当てによって借金が膨らむことをもって「子ども達の将来にツケを残して子ども手当てはおかしい」と言っている有権者が将来にツケを残す減税に賛成する現象は本当に不思議です。
●簡単に財源など生まれない
「いや、行政改革で減税分の財源は捻出できるはずだ」という主張がありますが、本当にそうでしょうか? 私も政令市の市長として行革を急ピッチで進めていますが、さすがに10%減税分ほど財源を捻出することは不可能です。
そもそも「民主党は予算組み替えで財源が捻出できると言っていたのにウソじゃないか」と批判している有権者が河村市長の「行革で財源は生み出せる」という主張は信じることが不思議でなりません。名古屋市の平成22年度予算を見ても基金を取り崩し、市債も大量に発行することで成り立っており、このままでは危険な方向に進むことは誰が見ても明らかです。
私は河村市長の政策を全て否定しているわけではありません。
先ほど申し上げたように減税というのは市レベルであれば政策上全くナンセンスというわけではありませんし、地域委員会を始めとした市民自治の取り組みも非常に意欲的な取り組みです(少し拙速感は否めませんが)。
ただ、中京都構想といい、減税といい、本当に中身を理解した上で有権者が判断したのか疑問を感じざるを得ない選挙だったのであえて申し上げました。それだけ河村市長のパフォーマンスが凄かったということでしょう。
最終的には民主的な選挙によって有権者が選んだ以上、その住民の選択が正しいことを信じるしかありません。
もし、深く考えずに「人柄」や「勢いがある」で投票したのだとすれば、その選択によるリスク・被害は河村さんや大村さんではなく、他の誰でもない有権者自身が負うことになるでしょう。
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名古屋市長の河村氏の行おうとしている減税策は一見よさそうに見えますが、悪名高いレーガノミクスそのものだと思います。
減税という餌で釣っておいて、市長もおっしゃられているように実際は富裕層優遇ですし、財政赤字の増大によるサービスの悪化、地方債の増加による将来へのツケの拡大を招くでしょう。
市民の代弁者である市議の報酬半分カットも何の根拠もありません。
地味な一歩一歩でも、本当に必要なところに予算を配分、未来への負担を着実に減らし、人口減少を最小限に抑える施策を千葉市には望みます。
でも、本当にビックリしたのは、政令市でリコールが成立したことです。それも、大差で。
愛知県が減税されれば、アパートやマンション暮らしの岐阜市在住者は、引っ越す人がいるのかな?と思います。(名古屋と近いし、岐阜市から名古屋市に通勤されている人がいるので。一軒家の人は引っ越さないと思いますが。)
あと、財源問題で民主党の言う事が信用できなくて、河村市長の言う事が信用できる有権者の気持ちは、なんとなくわかります。なぜなら、テレビや新聞を見ている限り、民主党は批判されると、あっさり撤回したり、言い訳をするけど、河村市長は何があっても曲げないように見えます。(ある意味、小泉元総理を見ている感じです。もちろん河村市長のやり方の良し悪しは分かりません。)
私が名古屋市民だったとしても、減税コンビに投票していたと思います。
ところで「稲毛新聞」は目を通しましたか?
地元に、あのような中傷が載ることが私には悔しい。
財源の不安はもとよりですが、もし将来世代へのつけ回しを承知で支持されていたとすると他県の出来事であっても既成政党への異常な不満があったとしか受け取れないです。
また今回の結果として他地域においても首長新党の動きが勢いを増すのであればその地域の有権者が現在の政治に何を求めているのか
注視していきたいと思います。
要は目の前にある不満をぶつけようとするのか未来志向で果敢に課題へ取り組もうとするのか愛知に知り合いがいない為、不確定な認識になるかもしれませんが、減税が全ての解決につながるとは到底思えない時世です。
私にも建設的な性格をした農水省勤務の兄がおります故、国家公務委員様の最初の一言、とても嬉しく思います!!
それでは皆さまおやすみなさいませ。
河村市長の政策、個々の内容を吟味した人がどのくらいいるのかは疑問ですが、
投票者は「減税」と「議員報酬の削減」がセットだと考えているんではないでしょうか?
金額そのもの、ではなくて「そういう方向」で考えることを選んだ。そう思えば理解できます。
ただ、減税できるくらいの力があるのなら、借金の返済を…と考えるのは貧乏人の発想なんでしょうかね?
千葉とは経済基盤や状況も違うし、あの政策をそのまま取り入れられるとは思いませんが、議会コストの圧縮(定数削減、報酬減額)を叫ぶ人が出てもおかしくないと思います。
選挙選は勝たなければ意味がないと思っています。しかし有権者には判断する材料がやはり少なすぎます。マスコミに左右される傾向が強いです。減税をする原資を企業誘致や子育てに回すことをかんがえるべきだと思います。人件費の削減も最後の手段として、その分何倍も働いてもらいサ-ビスの量質を高めてもらうほうが効率的ではないでしょうか?和をテ-マに戦った去年のロッテをみならいましょう。
今回個人市民税についてのみ言及されていますが 法人の市民税については触れられていませんね?
なぜでしょうか?
中京都のイメージは私もよくわかりませんが、
道路で例えると 県道を無くし国道と市道のみにするのではと思ってます
熊谷さんが市長になってくれてよかったと思っている市民です。いつも応援しています。
しかし、今回のコメントは違和感を覚えます。熊谷さんのコメントは正しいと思いますが、河村さんのやり方は熊谷さんと違うのですから。
河村さんは、稼業議員から民主主義を取り戻す運動及び公務員の無駄排除など、根本は阿久根及び大阪等と同じことをしようとしているのであり、国全体に波及してほしい大事なことです。
熊谷さんの対話による市政運営ももちろん大事なことですが、最近千葉市のある区役所に印紙を購入しに行ったときに、たかだか印紙一枚に一人は切り取る係り、一人は会計係りと二人で処理を行う姿はとても滑稽でした。いつ行っても、みんな暇そうですし・・・・区役所は民間に委託すれば2割位の人員で済むのではないですか?
住民に最初に減税をし、財源はどうする?と議論を起こし、次に公務員削減と持って行ったりするのもありなのでは? その辺のことは熊谷さんも想像できるのではないですか?
私は河村さんと熊谷さんを足して2で割ったような市政運営を希望するもです。市議会議員などはいらず、休日に市民の代表が討議する。公務員になるには一般企業で10年以上の経験要にし、今の人員8割カット(教員・消防・警察?除く)、システムは国に一括して作るように働きかけていくなど、もちろんあらゆる人との対話も重要です。
法人市民税についてはありませんね?
なぜでしょうか?
減税によって岐阜の人が愛知に引っ越すことはありえるとしても、減税分の金額と比べれば僅かでしょう。そもそも、減税による影響額は年収410万以下の人であれば年5,000円前後です。本当にこの程度で引っ越し代まで払って大勢の人が引っ越すのでしょうか。私は疑問です。
何人かが主張されているように、やはり地方議会に対する根深い不信というものを感じます。そこが河村さんを応援する動機にもなったのでしょう。
私も市議時代に議会改革を訴えた人間ですので、議会と市民意識の乖離には相当の危機感を持っています。
ただ、議会と対立する河村市長を支持することと、減税を進める河村市長を支持することは切り分けて考えなければなりません。
議員の特権を排除することに専心する余り、減税という大きな政策にまで白紙委任状を渡すのは危険です。自分たちはリング外の安全な場所で河村市長と議会の殴り合いを観戦し、応援しているつもりかもしれませんが、河村市長の政策によって自分の住んでいる街の財政が急速に悪化し、自分たちの将来が危うくなる可能性を十分に認識するべきだと思います。
それから区役所の話が出ていました。今後も行政改革や職員の資質向上には努めていかなければなりませんが、河村市長の言う「減税すれば行革が進む」的な論法は無理があります。
そもそも予算を減らして行革というのは、千葉市も含め各自治体が予算のシーリングという形で実際に行っています。
何でもすぐに成果を求めるのは日本人の悪い癖だと思います。もっと冷静に、そして着実に改革というものは行うべきです。
橋下さんや河村さんは成果が上がっているように見せているだけで実際にはそれほど成果が挙がっているわけではありません。(両者とも着眼点や構想は素晴らしいと思います)
「行革のスピードが早すぎる」と言われている私がこういうことを言うのも不思議な感がしますが、一個人の能力をあまり過信しない方が良いし、そんなに簡単に改善するなら誰も苦労はしません。
なお、法人市民税について触れなかったのは、この減税はまだ理解できるからです。個人市民税の部分が有権者の認識と実態にずれが生じている可能性があるので焦点を当てました。
ただ、経営側からすれば、既に立地している企業全てに薄く減税するよりは、その財源を企業誘致など戦略的用途に集中して活用する方が税収増には確実に結びつくとは思います。
また、中京都構想では県道を無くすという話は無いと思いますよ。これから具体的に考えるそうですから、どんな内容が出てくるのか期待しましょう。
稲毛新聞の件は事実に基づかない記事で反論するのも虚しくなります。
こうした地域に根差したメディアは大事にしたいと思いますが、報道するからには正確性が求められるという、報道機関としての責任をもう少し持ってほしいですね。
行政には競争が無い。ゆえに肥大化していく。議会と首長という似非対立構図の中で安住する政治家稼業。次の代へと家業となって、国破れて議員あり。
河村たかしは、議会がゴねるのを言い訳に権力と高給に安住しなかった。
10%には意味は無い。敢えて言えば1割引のセール。行政に競争原理を持ち込む手段である。企業が苦しい時に行政も痛みを分かち合うのが当然という考え方。
「恒久」減税は、企業誘致策。タックスヘイブン。
今回「福祉」といえば世論が票が取れると踏んだ落選候補が多かった。
国会議員のときから議員年金の廃止や委員長特権の返上などを訴えてきた河村たかしは、2004年の「国破れて議員あり」に書いていることを名古屋で実際にやり始めた。私は氏の実行力に期待したい。
熊谷さんも是非勉強してください。
民間出身の市長として申し上げるとすれば、行政は民間の発想に学ぶべき点も多いですが、行政は民間と違う条件を課せられていることが多いのも事実です。この辺りを冷静に見なければ見当違いの政策になるでしょう。
いずれにしても結果は5〜10年経てば自ずと分かると思います。私はある意味色々と勉強させてもらいました。
自身は投票できる立場にないため、あまりどうこうは言えませんが、
「減税」「中京都」さらには「市会の解散」についても、首をかしげざるを得ないというのが正直なところです。
河村市長の言う「市民税減税10%」は、根本は消費税と似ていると思うんですね。
日本の税制は累進性が低い上に法人税がものすごく安いというのが気になっていて、それをさらに減税するのは、財界や産業界だけが得をしてしまうのではと危惧しています。
その結果、自治体への収入が減っていけば、市民サービスの低下は免れないでしょうし、そうなれば、減税で懐の膨らんだ経済界の意のままに使われる危険性も考えられます。
また、「中京都」も内容がよくわかりませんが、
中心地がどこだかわからなくなってしまう恐れもある(東京都の中心を訊かれても多分答えられないでしょう)ほか、
都制の特別区は市と違って自前で課税できないため、自治制が損なわれる可能性も否定できません。
もうひとつ、名古屋市会(市会が正式名称です)の解散が決まりましたが、もともと4月に任期満了し選挙の予定になっているので、
たった1か月だけ前倒しするのに何の意味があるのか甚だ疑問です。
また、リコールが市民発でなく市長発であるのも違和感を覚えます。
市長と市会の対立は歴代の市長はみんな経験しています。しかし、解散を企てた元市長は一人もおらず、都度、審議を重ねて努力をしてきているのです。
だから、市長の意向通りに進まないからといって安易に解散すべきではないお思います。
それこそ、二元代表制や民主主義の根幹が問われる重要な問題で、そこをもっと掘り下げる必要性を感じます。
状況を改善するには、コストカットをして、売上をあげる必要があります。
そこで、千葉市がどうすれば良いのか考えました。
まず売上である税金ですが、急に多くは増えませんが、現在急に減ることもなさそうです。
売上は安定というところですね。
次にコストカットです。
支出の殆どが福祉や、施設運営・建設と人件費ですので、税以外の全ての行政サービスをやめて、税務担当以外の公務員は休職とする。
それで財政再建は数年で完了ですね!
・・・どうでしょうかねぇ。
民間でこんなことやれば当然会社がつぶれますが。
ご意見に同感です。
河村さんからは、行政という複合的な作用についての基本的な認識が欠けているようです。
私は生まれも育ちも東京で、千葉市政については直接の関係はありません。市長選における「民主党らしい」マニフェストから判断して、失礼ながら熊谷さんには全く期待しておりませんでした。
今般のご意見で、その認識を改めました。
石原都知事は、かねてから広域行政の必要性を主張しています。同じ首都圏の首長として、熊谷市長のご活躍を期待しております。
ぜひ、都政に関しても積極的な働きかけをお願いします。
同世代のいち国民として、私も頑張ります。
税金を取らずに、要望も叶えますなどと如何にも民主党らしい意見で、そんなことを信じる選挙民も馬鹿としかいいようがない。
国の赤字と国民の貯蓄高が同程度らしいが、税金を払っていないか、無駄な施設を造っているからなのだろう。
国防の為なのであろうが、港湾整備、空港整備、高速道路、防災対策費など、市町村レベルでも要らぬ建築物を作って、その維持費も膨大なのだろうが、あいもかわらず方針はかわっていないようだ。子供手当てなど、ばら撒きは、経済政策でもないし将来に借金を残すだけの馬鹿のすることだ。選挙目的の政策馬鹿は、政治家になって欲しくないですね。
レーガノミクス、日本ではアメリカと違って国防費が急激に増加することは無いと思いますので良いと思います。
先日NHKテレビで、マリンスタジアムの人工芝張替えを寄付金で行っていると放送していました。また、緑区の一部では、住民が公園の草刈・清掃等をボランティアで実施していると聞きます。JFKの大統領就任演説を思い出してください。
千葉市では、熊谷市長の意見のように、先ず財政再建を優先させ、子供世代にツケを廻さないようにしましょう。
頭がよっぽど悪い。
減税しようが、しまいが、お金の総額は同じです。
減税したら、その分が「市場」に流れるんです。
10%減税するということは、金持ちであろうが、貧乏人であろうが、とにかく国民に資金が委譲される、ということです。
国民に直接資金が流れれば市場が活性化して、貧乏人も、その恩恵にあずかれるんです。確実に市場が10%広がるってことです。
税金に、この市場経済への刺激効果はまったくありません。ゼロです。それどころかマイナスです。
このもっとも大事な部分を見落としている熊谷俊人という人は、よほどのバカでしょう。
というか、多分、官僚やら役人やらのこねくり回された屁理屈漬けにあって、この、もっとも重要な事が見えなくなっているのでしょう。
がんばって勉強してください。
熊谷俊人さん、あなたは、本格的なバカです。というかバカになりかけです。
気合いを入れて、考え直しましょう。
行政の不正会計問題見抜けなかった責任をなぜ議員は問われないのか不思議でしょうがない。
市長に対し、「頭が悪い」「バカ」と言い放つことは止めていただきたい。市民の総意で市長となられた方ですので、自分と違う意見や思想があっても、敬意を持って議論していただきたいと思います。
さて、私の意見ですが、簡単に減税を口にすることには反対です。それよりも市の負債を少しでも削減することが先決だと思うからです。やはり未来に「負」を残したくない。税収の増加率よりも市債の利息増加率の方が高いことも一つの理由です。
経済行為というのは、毎日毎時間毎秒行われている「投票行為」のようなもので、その投票行為がよりよい商品やよりよいサービスを社会に提供して社会がよりよくなっていくのです。
その経済行為が、すべて終わった後の「結果としての利益」に税金はかけられています。
だから、税金で何かのサービスを行っても、そのサービスを受ける主体の側の「ニーズ」が反映されたものにはなりません。完全な無駄金になる可能性の方がはるかに高い。
それが、まず何より「税金」というお金の種類に一番の問題点です。
経済行為というものが毎時間、毎秒の投票行為であるのに比べて、税金は代議制によってサービスを受ける側ではない人間によって判断され、サービスを受ける側は投票時にしか、その判定ができません。もともと恐ろしくフィードバック効率が悪い仕組みなんです。
だから、基本的に減税こそが善であり、増税は悪です。というか税そのものが悪です。必要悪ですから、存在を否定はしませんが、いかに少ない予算で高いサービスを提供できるかを考えるのが筋だ、ということです。
こういう当たり前の事を忘れてはいけないのです。
しかし、税をもらって生きてる人は、「金持ち」と「貧乏人」を分断して、その間でいさかいを起こして、自分たちの持っている税を使うという権力を守ります。
役人は自分の給料が大事ということもありますが、税の使い道を自分で決められるという「権力」にこそ魅力を感じるのです。
だから、どうでもいいルールばかりが増える。ゴミの分別がどうだとか、「AさんとBさんでは、かくかくしかじかの条件が異なりますから、この場合はうんぬんかんぬん」
じゃかあっしいわ! お前ら役人が役立たずの大飯ぐらいの居候のくせして、ごちゃくちゃぬかすなボケ。さっさと減税して金を国民に戻したらええんじゃ。「金持ち」と「貧乏人」の間をわずかでも金が行き来したら、「毎時間、毎秒」の投票行為で、世の中はまともになるわい。当たり前の話じゃ。
逆に我々国民が、減税で、絶対に譲ってはならないのが、「減税しましたから、サービスの低下はまぬがれません」という、箸にも棒にもかからない、くだらない言い訳です。
たかが10%の予算縮小など、現場の努力で吸収せい!ドアホどもが。
そんなこともできんのか!アホが。
それができないというのがアホなんや。ボケ。一般国民はみんなやっとるわ。
半導体産業など、年々CPUの性能が上がりながら、パソコンの値段は下がってるんやぞ?
しかも、そのパソコンは「事務処理」にもっとも効果的な道具。
「事務処理」っちゅうのは、まさに役人の仕事そのものやないか。
この20年、事務処理の作業効率はどんどん上がってるのに、なぜ、まったく減税がないのか! その方が明らかに筋が通らん。バカな事を言うな。
「減税したからサービスが低下」など、絶対に言わせない。それこそ、何の努力もしていないということだ!
まず、減税して、「金持ち」と「貧乏人」の間で金を回すこと!!!!!
毎時間、毎分、毎秒、国を良くするサービスが生まれる市場経済に資金を流すこと!
そして、その資金を捻出するために、サービスの質はいっさい変えずに10%減税をすること!
こんなことは名古屋市だけのことではない!
千葉市であろうが、大阪市であろうが、すべての役所でやって当然のことです。
熊谷俊人さんは「役人の給与を下げて」という発言をしているが、役人の給与を下げるのも大事な事やけども、それを変えずとも、真剣に考えれば「サービスの質は低下させずに運営資金を減らすこと」はできるはずです。
それができない役人なら、無能な役人だから、その時は堂々と給料を下げればいい。
まず「予算を減らして、同じサービスを提供することはできないか?」を考える。
たとえば、同じ業務でも半分の時間でやりおえたら、50%もの予算圧縮効果がある。そういうことを、まずやるべき。それもできない無能な役人から給料を下げなさい。
それが世の常識です。
「金持ち優遇」とか、くだらん理屈を考えてるヒマがあったら、そういうことから、即実行せよ。
そういうことです。
私は公務員ですが、この考えには概ね同意せざるを得ません。
リバタリアニズムとも言えるのかもしれませんが、税金は市場経済を阻害する悪しきものだという基本的な考え方が今の世の中には必要だと思います。
ただその中で、本当に税金も政府もなくなった世の中で、何が起こるのかを想定し、最小限の政府による行政行為(サービスという言葉は使いたくないです。)を見出していくことが重要ではないでしょうか(多少木田茂夫さまとはこの辺の考え方が違うかもしれません)。
特に少子高齢化という状況の中で、バブルで思考停止した亡霊がのさばり、見当違いの方向へ日本を向かわせている現状は悲惨であるとしか言いようがありません。
>いかに少ない予算で高いサービスを提供できるかを考えるのが筋
まさにこれです。これが行政の存在意義でなければならないはずです。
ただ単にニーズニーズと唱えながら民意「らしきもの」を汲み取って税金を何の効果もない部分につぎ込むことは本当に「悪」そのものです。
市場で供給すべき財を行政が扱うなどもってのほかです。
市長ブログが住民を惑わせるとおっしゃっておりますが、それよりも、そもそもの住民の『無知』が行政を肥大化させ、「悪」そのものの行為をそそのかしている一面もあるはずです。
一例として挙げるとすれば、商店街関係者でもないのに、「大型店舗の出店は規制すべき!商店街振興策をすべき!」などという一方で「談合は悪!!」などと言う方などはまさにそれです。
雰囲気や先に書いた亡霊の戯言に流されて、何も考えていないのです。
一度行政そのものを破壊し再構築することが、これからの日本には必要なことだと思います。
よろしくお願いします。
名古屋へは、娘が住んでいて、お産を名古屋でするので一ヶ月ほど生活をしました。
印象は、千葉市よりはるかに市民の活気があるということ。市民が自分達でどう経済活動をして自分達の生活を盛り上げるか、あるいは盛り下げるかに関して、非常に関心を持っていることでした。
桜通りと太閤口では、まったく質の違う街づくりですがそれもまた面白く、生活のエンジョイの仕方が違う両方を楽しみました。
千葉市は遊び心がないという印象を名古屋の生活から学びました。
河村さんの「役人、官僚の好きな食べ物は?」に「税金だで」には感心しました。
税金を市民から絞れるだけ絞って、市民に還元しないのは皆さん承知のとおりで、だから税金を絞って、役人、官僚の使える税金を少なくし、そのお金を政治がどのように市民に還元するかでしょう。低所得者(我が娘夫婦含む)今以上に税金を取られなければいいわけで、10l減税の恩恵にあずかれないとしても、税金で食ってる熊谷市長さんが優雅にお写真に納まっている市政だより、より、名古屋は面白いし、生活も活気がある。千葉人より、自立しているのですよ名古屋人は。
言葉と数字だけでなく、規制とか罰則を増やすより、どうすれば税金を払う人が暮らしやすくなるか、名古屋に行き人の動きと生活に対する考え方を研究なさったらいかがですか。
名古屋には感謝です。早期胎盤剥離で母子共々極めて危険なお産でしたが、公立病院が即座に受け入れ、素早く手術をし、母子両方助かり、母子共に健康に生活しています。
これが千葉だったらと、いろいろな人に言われました。個人の産婦人科と公立病院はきちんと提携、連携できているのでしょうか。
税金ではない、命の連携は、必ずしもという千葉市の生活ではあります。
名古屋に見習う点も多々あると思います。他自治体の取り組みは常に研究し、良いところは反映させていっています。
私が千葉に来て感じるのは、千葉の人は自分たちに自信を持たなさ過ぎるという点です。
「これが千葉だったら…」というコメントがありましたが、まさにその特徴が表れていると思います。
千葉市は救急医療については他市よりも遥かに優れていて、夜間救急初期診療部(夜救診)・休日救急診療所がいつでも対応できるように体制を整えています。
産科救急についても海浜病院内に高リスク出産に対応できる地域周産期母子医療センターを整備しているほか、県立の子ども病院でも対応できます。
もし、名古屋に活気があると感じたのするのであれば、それは行政の能力差というよりはそこに住む市民の活力の差なのではないでしょうか。もっと言えば自分の街に対する誇りと愛着の差だと思います。
なぜ行政に矛先を向けるのかが私には疑問です。
税金が少ない方が良いのであれば行政なんて必要ないと思いませんか?
少子超高齢化が本格的に進展すれば一人ひとりの自助努力ではとても生きられない社会が生まれます。認知症への対応、介護を求める人へのソフト・ハード面での対応、積りに積もった借金の返済、一体誰のお金でそれを支えるのでしょうか?
税金を取られるのは誰だって嫌なものです。税金を取る側だって嫌なものです。
しかし、名古屋市の10%減税で5,000円程度の市民税が安くなることと、その5,000円の積み重ねによって本当に救いを求めている人たちに手を差し伸べることと、一体どちらが社会を維持していくために取るべき道なのでしょうか。
税金を1円でも賢く使って欲しいというお気持ちはよく分かります。私たちもそれを常に意識して行財政改革を進めていかなければなりません。
しかし、そのことと、税金は安ければ安い方が良い自治体だという考え方は全く別のものです。
今生きる名古屋市民は今選挙権を持たない未来の名古屋市民からきっと恨まれることでしょう。「あななたちのわずかな利益のために、どれだけ未来の人たちにツケを残したのか」と。
私は今生きる人たちに例え石を投げられようと未来の人たちへの責任を果たします。その覚悟で今市政にあたっています。批判は甘受しますが、もっとこの国の将来に危機感を持って頂ければ幸いです。
行政に関することは別の所に問い合わせしなきゃいけないかと日記のサイトを見て考えていましたが、丁寧な多少むっとしているような文を読みまして、余計な時間をコメントにつぶしてしまって申し訳ないなと思っています。
ついでに書かせていただきますと、救急の帝王切開と出血を止める手術、および未熟児の3週間集中治療室での治療、というお産にかかった費用がほとんど無料だったことにも感激しました(全国どこでもかもしれませんが)。さらに名古屋の産科では、両親が育てるのだという意識を親となる夫婦にしっかり指導していただいたことにも感心しました。名古屋という社会のおかげです。
娘夫婦と子どもは極上の幸せをつかみました。
千葉市の産科救急のことを知らせていただき安心しました。
河村さんはじめ、「減税日本」党ですか、そこに集う方々は、私は一人ひとりがしっかり子供たちの親として、将来を見据えた市政を考えているものと「信頼しています」
熊谷市長にも「信頼」して一票を投じました。とにかく行政をあなたのやり方でしっかりやってください。まだ夫は現役で働いて、生活費と同じくらい税金(厚生年金他含む)は払っております。私は、内科、外科、神経科、耳鼻科など毎月通っている身ですから、ろくに行政など気にする暇はありません。たまたま娯楽で見ていたサイトにこの日記が載っていたものですから、「あら、うちの街だわ」と廻ってきた次第です。
もう一人の娘は埼玉に、大阪、愛媛にも土地勘があります。田中康夫長野県政のときには、長野県の民宿を営む友人の家に再三泊り、国会議員の利権がどう転がりこむのかを知り、田中知事のネットワークでいろいろ教えていただき、一昨年の3月3日小沢さんの秘書大久保さんがいきなり逮捕という呆れた検察の行動と嘘八百のマスコミ報道を目にして、巨大な特捜の無駄遣いを見せつけられ、いまは菅政権にあきれ返り、官僚と国会議員の出世欲、保身と権力欲が一番税金の無駄遣いと私は思っています。彼らの欲望だけの税金無駄遣いをみているとボランティアでいいと思います。
千葉市のモノレール。あの工事の下請けは仕事をすればするほど零細企業は赤字で何件倒産したことか、と土木会社の方はぼやいていましたがその上に出来上がったモノレールは赤字だと。それにしても千葉市のアクセス・・・海ほたる…言えないことって・・・
それと千葉市郊外。ずいぶん歴史散策、植物散策で歩き回っていましたが、森?林などに囲まれてのどかだことと林立する木陰を見れば不燃物が散乱するありさま。
ゴミ処理しやすいパッケージなど研究なさるといいのに。消費者にゴミをほるなという前に。愛知では概ねスーパーではレジ袋はなしは徹底されていました。デパートでもその傾向はありました。万引き対策で難しいとは思いますが。
河村さんの一途な志、すごいエネルギー、とにかくやってみてと、エールを送るくらいの「信頼」があってもいいのではないでしょうか。
危惧するところはきちんと川村さんと意見交換してほしいところ。
千葉県民は、川鉄公害訴訟、成田空港反対運動で疲れているのです。
川鉄公害訴訟の和解成立後の集いに私は出ました。
「聞いてください。私たちは和解などしたくはない。だけど時間がないのです。子どもたちは苦しみながら3人亡くなりました。夫はこの集いに出たかったのですが体が動けません。私は息をするのも苦しくのたうちまわるのを薬で抑えて、主人の代わりに出ました。和解は本望ではないと誰かに伝えたくて」
成田空港問題は仕事でどぶろく訴訟をした前田俊彦氏にお話を聞いたことがあります。「瓢鰻亭」(屋号)に着くなり「道路ぐらい作ったらいかがですか?」と前田さんに文句を言ったら「ここは無法地帯。だから道はない」
国が農民の土地を強制的に取り上げたことを謝罪したことで闘争を降りた、成田闘争の中心人物の1人であった小川嘉吉さんが、初めて成田から海外に旅行をして間もなく亡くなったことをここに書き残します。
国家に分断され続けた千葉であります。
30年前くらいに、千葉市の行政の遅れが目立ち国から出向するお役人が役所の半分を占めたと聞いたことがありますが(天下り?)いまは大丈夫なのでしょうね。
新千葉市民が多くなったような時代のこれから、新住民だけあって、コネや利権のひもがないのが一番!
頑張れ!市長
サラ金だって、「ご利用は計画的に」というのに、計画経済ではなくてなぜ自由主義市場経済は可能なのか。
神の見えざる手という有名な言葉があって、経済は市場の自由な運動に任せておけば需要と供給の関係でおのずから最適な位置に落ち着くのだということのようですが、でも供給と需要は全然別のものじゃないか、おコメを百俵作った人がそれを売りに出したがそのコメを必要とする人には金がなくて、コメは売れ残り人は餓死するでは最適な状態とは言えないのではないか、というと、そういうことではなくて、セーの法則、もしくは販路の法則というのがあって、供給それ自体が需要を生み出す、のだそうです。これは経済学上ではあたかも物理学におけるエネルギー保存の法則といえるものなのだそうで、どういうことかというと…
ある樵が山林地主に一万円をはらって木を切り出し、二万円で材木屋に売った。それを家具職人が三万円で買い、テーブルを作って四万円で売りに出した。各人の収入はそれぞれ一万円で、四人の収入の総計は四万円である。左側には四万円の収入があり、右側には四万円の商品がある。
もし樵の取り分が五千円であれば三万五千円の総収入に対して三万五千円の商品になり、材木屋が自分の収入を一万五千円にすれば四万五千円の総収入が四万五千円の総商品に対することになる。さらに一人の商人が現れてそのテーブルを買い五万円で売るとしても同じで一方に五万円の総収入があり反対側には五万円の商品がある。全世界の収入の総額と商品の総額は常に等しい。この二つは違うことができない。だから収入のすべてが支出されればすべての商品が売り切れる。
これは非常に優れたシステムで、もし商品が売れ残るとすればそれはその商品が市場にとって不要なものだったからであり、必要な商品である限り必ずそれが売り切れるだけの収入がおのずからもたらされていることになる。
ただしここで肝腎なのは「収入のすべてが支出される」ということで、(マルクスとケインズが批判したのもここですが)
このとき、収入の一部が支出されずに貯蓄に回されるとするとその分の商品が売れ残ることになり、その商品が売れればもたらされるはずの収入が実現しないことになる。そこに発生する貧困の量は貯蓄の量と等しい。使われずに残った貯蓄は世界の反対側に自分と等しい量の「実現しなかった収入」・貧困を生み出す。
一方で、貯蓄するということはもう消費に金は使わない、消費財はいらない、と市場がいっているわけなのだからそれだけ資本財、生産財に資源を振り向ける余裕を手に入れたのだともいえる。
資本主義の初期においてはブルジョワジーという偉大な種族がいて利潤をすべて投資に次ぐ投資に振り向け資本財、生産財を拡充し世界を豊かにしたというふうに昔習った記憶があるのですが、今の日本はカネ余りとか言って産業育成のための投資に振り向けられずに漫然と溜め込まれたままになっているのだそうで(というよりは投機目的で溜め込まれている)、するとその巨大な貯蓄の分だけ消費が不足し、実現されない収入・巨大な貧困が生まれる。
自由主義市場経済で完全雇用が実現するのは貯蓄がゼロのときで、貯蓄が存在するときは貯蓄と同じ大きさの投資をしなければ失業と貧困が発生する。
もはや投資に次ぐ投資で事業を拡大した偉大な種族が滅びてしまった現在、国づくりがあらかた終わってしまったといわれる現在では、この巨大な貯蓄を何とかするには、貯蓄している人に何とかものを買ってもらうとか、軽いインフレ状態にして今使わなければ損をするぞと脅かすとか、貯蓄分は税金で没収するぞといって強制的に支出させるとか、それでも使わなければ本当に没収して国が代わりに使ってやるとか、もしくは安い金利で借り上げて国づくりに使うとか、多く貯蓄する富裕層からあまり貯蓄のできない貧困層に所得を移転するとか、または、使わないで貯めこむだけの人がいるなら、貯めないで使う人がいればいいわけだから誰かが巨大な赤字を出して借金経営の事業をするとか、とはいってもそれだけの赤字に耐えられるのは民間にはいないだろうから国が赤字財政で何かをするとか、またはそもそもカネがしまいこまれてしまっているのだからその不足分のカネを印刷するとか、が必要になる。
投資しきれないほどの貯蓄が眠っているということはそれだけのお金を持つ資格と能力のない人の手にお金が集まっているということであり、一方にはお金がなくて失業、ホームレス、餓死、自殺が発生しているということは現在の貯蓄のシステムが重大な欠陥を抱えていということだ。失業、ホームレス、餓死、貧困…は自己責任ではない。
税収が足りない・国債は国の借金だ・とデマゴギーを振りまいている人がいるが、それなら国債に投下されている金を税金として徴収することにすればよい。それを嫌って貯蓄が全部消費にまわされるならば完全雇用が実現してしまうわけだから国がすることもできることもなくなるわけでそのほうがマシなのだ。
もしくは発想を逆にして、貯蓄の残らない世界を作れば無駄なバラまきをしないですむ。
つまり120万円はすべて、結局は誰かの収入になる。
このとき、売り上げは120万円だったがそれによって得られた収入が130万円になるなどということはないし、逆に110万円の収入しかもたらさないということもない。
商品の価格は収入の合計に等しい。
これはすべての商品についていえることだから、世界の全商品の価格の合計は世界の全収入の合計に等しい。
ここで120億ドルの商品と、したがって120億ドルの収入の対峙する世界を考える。
両者を120億ドルの金貨が媒介し、取引は年一回行われる。
どこからはじめてもよいのだが、まず「企業」に120億ドルの金貨があったとしよう。それは前年度の総売上である。
「企業」はそのうちから利潤の20億ドルを株主(地主)に支払い、100億ドルで労働者(農民)を雇う。「企業」は一年で120億ドルの商品(コメ)を生産し売りに出すが、買うのは「家計」(株主+労働者)である。利潤率20パーセントで、それは株主の手に入る。
「家計」が120億ドル(20億ドル+100億ドル)のすべてを商品の購入に支出すれば「企業」に120億ドルが還流し、「家計」はその商品を一年で消費する。これでもとの状態が回復され、次の一年の生産が始められる。
このとき10億ドルが使われずに甕に詰めて地中に埋められると(貯蓄)、「企業」には110億ドルしか還流しないことになる。すると「企業」が「家計」に支払うことのできる金額も110億ドルになり、「家計」は10億ドル貧しくなる。
貧しくなった「家計」の側では10億ドル分の商品(コメ)を変えない貧民・労働者が餓死するだろうが、その労働者を養うべき10億ドルの商品(コメ)は「企業」の倉庫で腐り始めている。
なぜこんな馬鹿なことが起こるかといえば10億ドルの金が溜め込まれてしまったからだ。
もしこのとき商品の側で少なくなった貨幣量に適応しようとして価格が下がると(120億ドルの商品を110億ドルで売る)、貨幣価格の上昇・すべての物価の下落(賃金も下落)という教科書どおりのデフレが始まってしまう。
だからはじめに貯蓄されてしまった10億ドルを何とかしなければいけない。
1 まずやらなければならないのはお金を貯めるだけで使わない人の手にはお金が行かない、とどまらないようなシステムを作らなければいけない。しかし政府は金持ち減税・消費税増税という真逆のことをやろうとしている。
2 理屈として一番単純なのは貯蓄を没収してそれを財源にして貧困対策(貧民にただで金を配るでもよい)をすることだが金持ちの抵抗があって実行は難しいかもしれない。
3 没収しない代わりに安い金利で借り受けてそれを財源にして貧困対策(貧民にただで金を配るでもよい)をしようとすると、国の借金は国が借金したことだからいつか返さなければならないなどと、本末転倒のお馬鹿なことを言う人が出てくる。(国債は国民が国に預金しているのだ)。貯蓄の全部を吸い上げるだけの国債を発行しなければいけない。
4 最後に、贋金を作るという裏技がある。10億ドル分の金貨を作るのは大変だが紙に「かね」と印刷して10億ドル分の紙幣を作ればインフレにもならず、デフレも退治でき、ただで10億ドルの収入を得ることができる。それを財源にして貧困対策(貧民にただで金を配るでもよい)をすればよいのだが、そんなことが日本銀行には難しいことらしい。
「死に金」という単語を目にするようになった。溜め込まれた貯蓄が生きた使われ方をしていないという意味らしいが、その金が溜め込まれてしまったために得られたはずの収入を失ってしまった貧民が世界の底辺で死んでいっている、そういう意味での死に金でもあるのだ。
なぜこうなのだろうか、というと、政府は本当は貧困やデフレを解決しないほうがよいと考えているのではないかと思われる。
海外で貧乏旅行をするとわかるが、貧しい国へ行くと私たちのような貧乏旅行者でもかなりの贅沢をすることができる。それならいっそ日本を貧乏人の住む貧乏な国にすれば、一部の金持ちはよりいっそうの贅沢な暮らしを味わえることになる。政府は一部の金持ちの利益を代表していて、日本を貧しい国にしようとしているのだろう。