パネリストは
・第1部講師の臼澤良一さん
・美浜区町内自治会連絡協議会の鳥越会長
・淑徳大学サービスラーニングセンターの石川センター長
・千葉市の伊藤主任保健師
の4名で、私がコーディネーターを務めさせて頂きました。
まず、それぞれの震災・被災地支援の体験とそこから見えてきた課題について伺ったところ、
(臼澤さん)
・計画というのは平時の計画でいざという時に役に立たない
・行政が全てやってくれるという考えではダメで、行政への過度な期待は無理
・町内会など地域の団体が日々行っていることがいざという時のネットワークとして機能する
・人に頼るのではなく自分の事として考え、そしてみんなで取り組んでいくべき
(石川さん)
・被災地に学生を連れて支援活動をしているが、学生にとっても人生観が変わる大きな体験
・被災地の中で千葉市と同じ大きさの自治体として陸前高田市がある
・面積はほぼ同じであるが、人口は千葉市が96万、陸前高田市は2万。人口密度がそれだけ違う
・被災地は土地があり、道路も広い。被災直後、道路は動脈であり、復旧に必須だった
・千葉市で同じような災害が起きた時、人口密度が高いため被害も大きく、かつ道路が狭い場所が多く、消防車なども入れない
・東北は田舎特有のコミュニティの強さがあり、顔の見える関係がある。千葉市ではどうか、色々と考える必要がある
(伊藤さん)
・千葉市は保健師が交替で大槌町の吉里吉里地区に派遣されたが、この地域は自分たちで災害対策本部を立ち上げている(以前ブログで紹介しました)
・感染症対策、健康管理などを行ったが、在宅の方々は遠慮もあり、助けを求める声がなかなか出てこなかった
・そうした時に地域の方々が支援が必要な方の情報を届けてくれ、地域住民の情報が一番だと実感した
・病気で隔離が必要な避難者が隔離を拒むケースもあったが、地元の人の説得によって応じたケースもあり、専門家ではできないコミュニティの力を感じた
・支援活動を進める中で普段自分がどのような薬を飲んでいるか把握していない人が多いことが分かった。これは事前に対策を取るべき
(鳥越さん)
・高齢者の安否確認などは、以前から自治会に代わり、そうした人たちの見守り支援をする福祉協力員の方々がしっかりやって頂いた
・磯辺7、8丁目が液状化で大変な状況になったが、それ以外の地域の人は7、8丁目が大変だという認識が無かった。連絡網を再度整備することにした
・自分たちの地域にも様々な防災団体があったが、立派な会則があっても、いざという時に動かない
・震災から1ヵ月後、社会福祉協議会が土砂撤去ボランティアを募ったが、地元の人間は殆どいなかった。非常に残念
その後、震災とコミュニティの再生への方策について伺ったところ、
・自治会の役員が任期1年というところがある。これでは大過なく務めることが主眼となり、活動は活性化しない
・役員の高齢化が進んでおり、若い人を取り入れる努力が必要
・学生をうまく巻き込んで欲しい
・やはり地元への愛着度がコミュニティ活動を左右すると感じる
・誰と誰が一緒に住んでいるといった地域の情報が把握できるコミュニティがいざという時に活きてくる。日頃の地域活動が大事
・東日本大震災でコミュニティの役割が問われている。東北にヒントがある。是非千葉市でも参考にして欲しい
コーディネーターをしながらのため、あまり書き込めることができず、一部のみとなってしまい申し訳ありません。
震災により地域コミュニティの重要性は叫ばれていますし、私たちも今まで取り組んできた自治会・自主防災組織・消防団などの結成率向上が進むかと期待をしましたが、正直目に見える変化は感じられません。民生委員のなり手も不足しているままです。
足元のコミュニティや絆が弱くなることは地域の災害対応力にも影響があります。
以前からあった傾向ですが、ボランティアの多様化・ICTの発達などによって、ボランティア精神の行き先が地元で様々な活動をする地域団体から、広い範囲で特定の活動を行う団体にシフトしているような気がします。
地元での活動は顔が見える分、利害調整が必要だったり、やり捨てができなかったり、何かと面倒なことが多いのですが、この利害調整を住民同士で行うことがコミュニティそのものです。
そうした足元の地域活動にもっと目を向けて欲しいと思いますが、一方で時代の変化は止められるものではありませんから、そうした活動の多様化を考慮した地域コミュニティの活性化も同時に考えていかなければならないのだと感じます。
私も自治会役員をしていた時に感じたのですが、昔ながらの人たちが役員をしている場合、殆どの連絡は電話になるわけですが、仕事をしている人はメールの方が連絡しやすいケースがあり、こうしたちょっとしたところで現役世代とのギャップが生じ、新たな人が入ってこない要因になっていたりもします。役員会議の度に飲みニケーションをするのも億劫と感じる人もいるでしょう(そもそも話題が合わないというのもあります)。
古い団体こそ、もっと現役世代が使っているICTなど新たな手法を活用して組織を活性化すれば、と思います。逆に現役世代はネットを介したコミュニティだけでなく、顔の見える、地元のコミュニティにも目を向けて欲しいと思います。
最後にパネリストからは何度も「自分のこととして」「行政に頼らない」という話が出たことが印象的でした。
行政には限界があり、特に大規模災害時に行政が全ての問題を把握し、的確に対処することを期待することは無理な話です。
行政は税金を預かる以上、「私たちに限界があります」とかなかなか言いません。しかし、私は行政は行政の責務を果たす前提で、限界についても率直に言うべきだと考えており、実際に様々な場所で発言しています。
行政が限界を言っておかなければ市民もいざという時のスタンスにずれが生じてしまいます。
行政の責務・得意分野と、地域コミュニティや民間だからこそできること、縦と横のネットワークを織りなすことで絆が深まるのではないでしょうか。
パネルディスカッション終了後、一緒に昼食を取りながら意見交換したのですが、
・東北の被害を無駄にしないようにするべき
・今までの災害を教訓にできなかった悔しさがある
・メディアでは汚い話は出ない。当然色々なことはある
・先頭で活躍している人ばかり取り上げられると被災地の実態が伝わらない問題がある
・フォロワーの現状こそが被災地の実態
・復興の街づくりに東京の設計事務所や大学教授が入っているが、中には現地の感覚とそぐわないものもある
・経済的な発展や規模の拡大を望まなかった人間が東北沿岸部に住む人の中に多いことを考えれば、東京の思考で復興の街づくりをしても上手くいかない可能性がある
・特に集合住宅はコミュニティ形成に課題がある
・高台移転にも疑問がある。現実的ではない
・ものすごい高さの防潮堤を国の補助金で作っているが、そのお金があればもっと生きた安全安心の街づくりができるのではないかと思う
といった話が出ました。
千葉市でも、まさかの時の補完システムとして防災、減災を目的に、防災メールシステムがH16に報道番組の集中豪雨の状況を検証した特集をヒントに考案されました。防災に使用するような状況は、数年に一度くらいの集中豪雨が想定されていたため、先進市では、通信確認用に配信されていたのは、週末天気予報でした。千葉市版では、もっと平常時でも、役に立つようにと、防犯メールも組み入れて提案されました。
報道番組の検証特集による新潟・福島豪雨では、窓ガラスを叩く豪雨で、防災無線の音声は、10mも届かず、各自治会長への電話連絡も町内や田畑の見回りのため90%以上の方が不在。HPは自分から見に行かなきゃ気がつかない。という状況だったということでした。
豪雨により戸を閉めて外界から遮蔽された人に緊急情報を届けるにはどうしたらよいのか。ということで、携帯メールに行き着いたのです。当初は、防災メールで異変に気がついた家族からシニアにも電話が行くだろうと。
しかし、最近では、老々介護ではないが、シニアしかいない家族も多いことがわかってきました。多くのシニアは、固定電話しかない文化の中で生活してきました。メールについても、すぐ使用できるよう設定してあげないと無理かもしれません。ドメイン設定など、やっと携帯電話での通話の仕方を覚えたばかりのシニアにとってはハードルが高いのかもしれません。
コミュニケーションツールとしてメールを使用するための行政・通信業者コラボによる講習会、学習会が必要なのかもしれません。また携帯電話からスマートフォンに移行する方が多くなると、アドレスが変わるため再度の設定が必要となります。メール受信ができれば、徐々に発信も出来るようになるのでは・・。
災害時には、メールによる防災ポータルサイトへのリンク送信も必要だと思います。遠隔地で働く方は、帰宅しようとする時、JR、京成、千葉急行、地下鉄など各鉄道会社やバス等の運行状況が必要となります。被災後は、避難場所、物品配給、インフラ、浴場やコインランドリーの情報も・・よろしくお願いいたします。
(長文になってしまったので、適当にまとめてください)
今年の3.11は岩手の被災地めぐるツアーに参加して、自分にできることをしてきました。
>・経済的な発展や規模の拡大を望まなかった人間が東北沿岸部に住む人の中に多いことを考えれば、東京の思考で復興の街づくりをしても上手くいかない可能性がある
これには違和感を感じます。現地に行ってみてきてください。
多くは語りたくない今ですが、昨夜千葉に到着時にツアーディレクタの最後のあいさつの言葉に「たった29名しか集まりませんでしたが、私にとってとても大切な人々との出会いになりました。被災地を皆様とともにみられる貴重な体験を生かしていきたいと思います・・・」
きょうは岩手で買った毛ガニ、カレイの干物(こんな大きな魚初めてです)ワカメの酢の物をいただきました。三陸で命をかけて水揚げした新鮮なものばかり。また世界中から集まった衣類、布から余ったもので80歳くらいの方が作られた手作りの温かいベスト(丈の長い羽織りもの)も購入し着ています。
私は、岩手の被災地で生きる勇気をもらって帰りました。
瓦礫と、家族、家庭のあった、家の基礎部分だけが残っているどこまでも見渡せる町の、村の跡を見続けていると地元の人が、
「基礎の部分も瓦礫になるんです。何も残らないのです」
悲しいですね、古人の生きた跡を千葉なら加曾利貝塚に代表される生きた跡が残るのに。
人、モノの流通の要はやはり鉄道です。三陸鉄道は仮設住宅に住む(どうにか住めるだけです)人々のために必死で再開させられる部分を再開し、流通の要の役割を再開していました。3.11前のようにはいつになるか。
何が無駄で、何が必要か。全部を失ったところから見えてくるものがたくさんありました。
結構な地震がありました。